ヒストリー

横浜はヨーロッパの匂いがする、と思う。
横浜港から吹く風は遠く異国へのイメージを増 幅させ、古く重厚なたたずまいを見せる建造物に、その思いを確信する。
その最も横浜らしい街、山下町に、港のうつろいを見つめ続けてきたホテルがある。
ホテルニューグランド。昭和初期に誕生したこのヨーロッパスタイルの正統派は、
大切に磨きあげられた宝石のように深く輝き、かつ 毅然としてそこに存在する。
私たちも、その誇らしい歴史をたどってみることにしよう。

《出典および参考資料》
ホテルニューグランド50年史(発行(株)ホテルニューグランド)
ホテルニューグランド70年の歩み(発行(株)ホテルニューグランド)
月刊ザ・ホテル(発行(株)オータパブリケイションズ)


「ヨコハマのシンボル」誕生

グランドホテル

震災以前、現ホテルニューグランドの近くにあった、外国人向けホテルの代表格、「グランドホテル」。そのほか多くのホテルがにぎわいを見せた。

ホテルニューグランド

山下公園よりホテルニューグランドを望む。この公園は、震災のがれきで海を埋め立てて造成されたという。

玄関前

開業当日の玄関前。未舗装の通りが時代を感じさせる。

全景

開業当時の全景。新しいヨコハマのシンボル。

船が、日本と外国との往来の主流であったころ、横浜港は、その玄関口として、多くの渡航者が足を踏みおろした場所である。
そのため彼らのための宿として、山下町界隈には多くのホテルが軒を連ねていた。
ところが大正12年9月1日、関東を襲った大震災は、華やかだったホテル街もろとも横浜を瓦礫の街としてしまった。

その後被災地には、外国人客のための仮設宿泊所が建てられるが、"テントホテル" と揶揄されたように、
その光景は、無残なものであったという。横浜市をはじめ当時の政・財界をあげての新ホテル建設の声が挙がったのは
当然のことであろう。当時の有吉 忠一市長が、「ホテル建設計画」を市議会に提出、可決を受けて、
それは現実にスタートを切ることになる。新ホテルの名称は横浜市民に公募された。
市民の復 興への期待を受けつつ、昭和2年12月1日、震災の瓦礫で埋めたてた山下公園を正面に、
「ホテルニューグランド」はその産声をあげたのである。

ジャパニーズホテルの黎明期

日本に外国様式のホテルが出現しだしたのは、17世紀のころとみられる。 江戸元禄年間に当たり鎖国中であったため、唯一の通商国として滞在を許されたオランダ人を対象としていた。 本格的な設備を持った最初のホテルは、慶応3年(1867)東京築地の「築地ホテル館」が定説とされている。 安政元年(1854)の日米和親条約以降、欧米との通商を余儀なくされ、それにともなって往来の激しくなった外国人に対応しなければならないという背景があった。 さらに明治に入ると、ホテルの建設は 急激に増加する。そしてその多くは外国人専用であった。 このように日本のホテル史は日本と海外との門が拡がるごとに、発展してきたことがうかがえる。 震災 後のホテルニューグランドにもいえるが、ホテルは、欧米の文化を貪欲に吸収しつづけた日本人にとって、なくすことのできない接点になっていた。


クラシックホテルの真髄

名調理人たち

横浜に本格フランス料理と、独自のサービスを持ち込んだS・ワイル(前列中央)。 その後、ホテルニューグランドの厨房からは多くの名調理人たちが輩出されることとなる。

玄関前

当時の玄関前。ハイヤーの向こうに人力車が見える。

女性従業員

外国人客にサービスする女性従業員。和服姿はさぞかし喜ばれたであろう。

ページガール

本館大階段に勢揃いしたページガール。当時も今も、ホテルに勤めることは誇りだったにちがいない。

ホテルニューグランドを開業するにあたり、初代会長井坂孝(当時横浜商工会議所会頭)は、古巣の東洋汽船から、
土井慶吉を常務取締役として迎え入れた。土井は欧米の視察という大役を得て、新ホテルのかくあるべきという
イメージを造り上げていく。そしてもっとも長く滞在したパリで、最初の支配人となるスイ ス人アルフォンゾ・デュナンを、
そしてコック長サーリー・ワイルを採用することになった。 開業後、国内外のVIPの迎賓を果たし際立った評価を得るが、
いっそう喧伝されたのは、"最新式設備とフレンチ・スタイルの料理" というキャッチフレーズ。

中でもS・ワイル料理長の存在は大きかった。本格フランス料理の味はもちろんのこと、
当時、堅苦しいばかりだったホテルレストランにパリの下町風の自由な雰囲気を取り入れ、
ドレスコードや酒、煙草についても自由、コース以外にアラカルトを用意するなど、
お客様本位のサービスを実践してみせた。

その他、玄関のドアボーイに英国風の制服を着用させたり、自動車の他に人力車と法被姿の車夫を常駐させたのも、
お客様の利便性を第一に考える、ホテルニューグランドの接客思想に基づくアイデアである。
こうして土井がかつてヨーロッパから持ち帰った成果は、日本的な細やかなサービスとあいまって、
ホテルニューグランドスタイルとして結実していった。開業当時から培われたこれらクラシックホテルの真髄は、
今なお引き継がれていることはいうまでもない。

料理長S・ワイル

ホテル料理人の人脈には、東の帝国ホテル系とニューグランド 系、西のオリエンタル系などがある。 そのニューグランドの系譜の創始者ともいえるS・ワイルは、その料理の腕前は言うまでもなく、指導者としても秀でた人物であった。 「どんなにうまい料理ができても、それを客の前に運ぶボーイの態度で客の印象は変わる」叱咤し、 「自分は魚の料理しかできない、肉の料理しかできない、と言うのは恥ずべきことだ」と彼の知識をおしみなく教授した。 当時まだ徒弟的雰囲気が濃く、食材ごとに年期をつむことが権威であった厨房にとってはかなりの改革だったと思われる。 しかしその全能的教育の甲斐あって、現在その弟子たちは各地の主要ホテルで指導的地位についている。その後日本に20年間滞在し、 弟子たちから「スイス・パパ」と呼ばれ親しまれたワイルに、昭和48年、日本政府は彼の文化的業績に対して勲5等瑞宝賞を贈っている。


マッカーサー元帥

マッカーサー元帥

本館玄関を出るマッカーサー元帥。周辺は焼け野原だった。どんな思いでそれを見たであろうか。(写真提供 株式会社 有隣堂)

マッカーサーズスイート

現在の "マッカーサーズスイート" 315号室。かつて戦後日本の歴史がここからつくられた。

マッカーサー元帥

サングラス、コーンパイプ、ノーネクタイ。その全てが珍しく、かつ憧れとなった。

ホテルニューグランドの歴史を語る時どうしても欠かせない人物が二人いる。マッカーサー元帥と、作家大佛次郎である。
開業の18年後、ホテルニューグランドは第2次世界大戦敗戦、米軍進駐という時期を迎える。
1945年8月30日、厚木飛行場に到着、濃いサングラス、ノーネクタイ、コーンパイプをくわえた姿で降り立つ
マッカーサー元帥の姿はあまりに有名である。元帥は、声 明文朗読の後、すぐさま乗用車に乗り込み、
まっすぐホテルニューグランドを目指した。

そもそも進駐軍が最初の滞留地を横浜とした陰には、最高司令官の宿舎 として、戦火を逃れたホテルニューグランドが
ふさわしいとの意見があったから、と伝えられている。マッカーサー元帥専用室に当てられたのは315号室。
横浜港に面した3階にあるこの部屋を、「気に入っ た」と副官に告げていたという。

このあと元帥はわずか3日滞在した後、次の居留地へと移ることになるのだが、実はマッカーサーが
ホテルニューグランドに宿泊したのは、このときが初めてではない。
1937年、フィリピン軍事顧問として当時のケソン大統領訪米に随行、その帰り訪日した際に、
彼にとっては二度目の結婚相手であるジーン婦人との新婚旅行として、ホテルニューグランドに宿をとった記録がある。
その彼が、今度は占領軍の最高司令官として足を踏み入れる ことになったのである。
8年間で横浜は大きく変貌してしまった。そのとき元帥の脳裏に、平和な時期の記憶が蘇っていたかどうかは、定かではない。

退役軍人の思い出

一人の老外国人から、スターライトルームから外を眺めてもいい かとリクエストされ、ご案内した。 窓際に寄り、山下公園と横浜港を見下ろしてしばし沈黙。感慨深げな様子の彼は、実は20歳そこそこのころ、 マッカーサーと進駐してきた米兵の一人であった。 そして進駐初日、山下公園に野営しながら、雲の上の存在であるマッカーサーの宿泊するニューグランドを見上げ、とても 立派に感じたと語った。 そして今、そのホテルニューグランドに泊まれたことを当時の思い出とともに噛みしめていいたのである。


大佛次郎

大佛次郎

現在のバー、シーガーディアンIIの前身、シーガーディアンで寛ぐ大佛次郎。執筆中も夕方になると良く現われた。

明治30年横浜に生まれた作家、大佛次郎。彼が昭和6年から約10年間にわたり、
ホテルニューグランドを創作活動の場としていたことはあまりに有名である。
横浜を舞台にした『霧笛』をはじめ『鞍馬天狗』他、
数々の名作をここホテルニューグランドから生み出している。

「…仕事をするにもハマでないと気分がのらず、ホテルニューグランドの一室に閉じ籠って多いに遊んだのもそのころだ。 318号室-それがぼくの部屋だった。ホテルの3階にあって、港が真正面に見えて、展望は良くきくし、実に住み心地のよい場所だった。 とくにボーイの気のきくのがいて、仕事の時は参考の書籍をきちんとそろえて待っていてくれる。 ノコノコ鎌倉の自宅からホテルに入るとすぐ筆がとれるといった 具合だった。…」(著書「横浜今昔」より)

今なお、318号室といえば「鞍馬天狗の部屋」と従業員達に呼ばれ親しまれている。もう窓の眺めも通りの人の姿も変わってしまったかもしれないが、 もしまた彼が318号室に現われたとしても、ハマならではの作品を生み出してくれるにちがいない、そんな雰囲気を保ち続けている。
昭和48年、彼の遺体が東京の病院から鎌倉・雪の下の自宅へ帰る際、
車はホテルニューグランドを経由して、彼が愛した港とイチョウ並木と
ホテルの従業員達に最後の別れを告げていった。

大佛次郎記念館

港の見える丘公園の隣に建つ「大佛次郎記念館」は約4万冊の蔵 書、生前の書斎を復元した部屋、愛蔵品(猫の置物が楽しい)、 愛用品、自筆原稿を陳列しておりファンならずとも興味深い記念館となっている。 特に、『パリ 燃ゆ』の執筆資料となったパリ・コミューンの資料は世界でも珍しいコレクションとされている。 また粋人だった当人を偲ばせる内装や調度も見逃せない。[大佛次郎記念館]

【料金】大人/200円、小人/100円
10~17時半(10~3月17時)
月・祝翌日休
TEL : 622-5002


当ホテルを訪れた世界のVIP

喜劇王チャーリーチャップリン、ベーブ・ルース、ジャン・コクトー
池波正太郎氏、石原裕次郎氏、松田優作氏

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